「よろづ、本能寺」

【挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
NPO法人観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズのガイド兼ブログコーナーを担当しております、松永です。
更新が途絶えておりましたブログコーナーですが、昨春より今回の制作に取り組んでおりましたため、大変ご無沙汰してしまいました。
100学んでも1しかお伝えすることがないかもしれませんが、その1のため学び続けたいと思いますので、自身の持ち得る最大限の力や時間を活かし努めて参りたいと思います。
さて、今回のテーマは天正十年(1582)6月2日に発生した本能寺の変・・・
その瞬間(とき)、堺で誰が何をしていたのか併せながら本能寺の変を時系列で辿ります。

【本文:「よろづ、本能寺」】
*本文に個人的な推理や憶測は一切含まれていません
*諸説があります
*ショッキングな表現が含みます
*複数の史料に基づいていますが真相は不明です
*変の動機について明らかにされた史料がないためどの説も十分な根拠がなく未だに定説は存在していません





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本能寺の変54年前
享禄元年(1528)
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・明智光秀が誕生する
[*]明智光秀:出自は不明、通称は十兵衛、武将、大名、継室(後妻の正室)は妻木煕子、生涯側室を迎え入れなかったといわれている、子は細川ガラシャ、茶人で師は堺出身の津田宗及、鉄砲名手、坂本城主、親友は細川藤孝、忍耐力に富む性格、山代温泉を愛好、出世スピードナンバー1、好物はちまきで餅米を包んでいる葉も食べたエピソードが有名、南光坊天海として変後の生存説有り、大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公

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本能寺の変48年前
天文三年(1534)
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・織田信長が誕生する
[*]織田信長:武将、大名、父は織田信秀、母は土田御前、傅役は平手政秀、正室は斎藤道三の子である濃姫、15歳で国友鉄砲鍛冶に500の鉄砲を注文、18歳で家督を継承、父の葬儀で抹香を投げたエピソードが有名、弟である織田信行を抹殺、謀反には倍返し、家臣を家柄筋目で判断しない、命名の名人(猿、禿鼠、金柑頭など)、ファッションリーダー、特技は水泳や乗馬、趣味は鷹狩りや茶道具収集、幸若舞や小歌を愛好、三度の飯より相撲が好き、ショートスリーパーで平均睡眠時間は3時間、好物は栗や柿

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本能寺の変45年前
天文六年(1537)
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・豊臣秀吉が誕生する
[*]豊臣秀吉:初名は木下藤吉郎秀吉→羽柴秀吉→豊臣秀吉、武将、戦国大名、母は大政所(仲)、妹は朝日姫、正室は高台院(寧々)、愛称は太閤さん、人のハートを掴む天才、草履エピソードが有名、趣味は能、有馬温泉を愛好、中国大返し、清須会議出席、大阪城築城、北野大茶会開催、黄金の茶室、親友は前田利家、堺出身の千利休と不和、醍醐の花見イベント開催、好物は割粥や牛蒡

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本能寺の変40年前
天文十一年(1542)
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・徳川家康が誕生する
[*]徳川家康:幼名は松平竹千代、武将、戦国大名、父は松平広忠、母は於大の方、正室は築山殿、継室(後妻の正室)は朝日姫、鉄砲名手、得意分野は家臣マネジメント、健康志向が高く趣味は薬作り、香物や時計のコレクター、好物は麦飯や鯛の天麩羅、堺にある南宗寺に墓とされるものが有るといわれている





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本能寺の変26年前
弘治2年(1556)
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・織田信行が兄である織田信長に1度目の謀反をする〈失敗〉
[*]織田信行:別名は信勝、武将、父は織田信秀、母は土田御前、同母兄は織田信長、趣味は鷹狩り

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本能寺の変24年前
永禄元年(1558)
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・織田信行が織田信長に2度目の謀反をする〈失敗〉

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本能寺の変12年前
元亀元年(1570)
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・杉谷善住坊が織田信長に狙撃をする〈失敗〉
[*]杉谷善住坊:鉄砲の名手とされているが出自は不明

・浅井長政が織田信長に謀反をする〈失敗〉
[*]浅井長政:武将、戦国大名、継室(後妻である正室)は織田信長の妹であるお市の方、子は茶々,初,江、居城は滋賀県長浜市にあった小谷城、義理を大切にする性格、好物は林檎

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本能寺の変11年前
元亀二年(1571)
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・松永久秀が織田信長に1度目の謀反をする〈失敗〉
[*]松永久秀:通称は弾正、武将、戦国大名、子は松永久通、子あるいは甥は連歌師である松永永種、孫は俳諧師である松永貞徳、三好長慶の重臣、信貴山城修築、多聞山城築城、天守を中心とした城郭建築の第一人者、茶人で師は武野紹鷗、九十九茄子や古天明平蜘蛛を含む名物茶器を所有する茶器コレクター、日本初のクリスマス休暇を取得しパーティーを開催、毎日の習慣は中風予防のため頭に灸をすえること

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本能寺の変9年前
天正元年(1573)
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・松永久秀が織田信長に2度目の謀反をする〈失敗〉

・安国寺恵瓊が織田信長の転落と豊臣秀吉の躍進を予想する
[*]安国寺恵瓊:武将、僧で師は竺雲恵心、安国寺,東福寺,南禅寺の住持、建仁寺再興に尽力、毛利輝元の家臣、豊臣秀吉の側近、抜群の外交能力を発揮し活躍

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本能寺の変5年前
天正五年(1577)
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・松永久秀が織田信長に3度目の謀反をする〈失敗〉

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本能寺の変4年前
天正六年(1578)
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・荒木村重が織田信長に謀反をする〈失敗〉
[*]荒木村重:武将、大名、子は伝説の絵師である岩佐又兵衛、黒田孝高を監禁、茶人で師は堺出身の千利休、利休十哲、晩年は堺で茶人として活動、好物は饅頭

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本能寺の変3年前
天正七年(1579)
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・城戸弥左衛門が織田信長に1度目の狙撃をする〈失敗〉
[*]城戸弥左衛門:伊賀流忍者、鉄砲名手

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本能寺の変1年前
天正九年(1581)
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・城戸弥左衛門が織田信長に2度目の狙撃をする〈失敗〉





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本能寺の変16日前
天正十年(1582)5月15日
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・徳川家康は、酒井忠次,石川数正,本多忠勝,榊原康政,井伊直政,服部正成ら約30の重臣や小姓と安土城に到着する
[*]酒井忠次:武将、徳川家康の重臣、優れた戦略眼、特技は海老すくい
[*]石川数正:武将、大名、徳川家康の片腕、抜群の外交能力で他家との交渉を担当、後に出奔し豊臣秀吉に臣従
[*]本多忠勝:武将、大名、子は真田信之の正室である小松姫、趣味は木彫、生涯に一度も怪我をしなかったといわれている
[*]榊原康政:武将、大名、達筆、親友は井伊直政
[*]井伊直政:武将、大名、井伊の赤虎、養母は女城主で有名な井伊直虎
[*]服部正成:武将、徳川家康の家臣、忍者、二代目服部半蔵、父は忍者で初代服部半蔵である服部保長、伊賀衆と甲賀衆を指揮するリーダー、「半蔵門」は別名である半蔵から由来
[*]安土城:滋賀県近江八幡市にあった城、地下1階地上6階建て、屋根瓦の色は赤,青,金

・織田信長は安土城で徳川家康を饗応する

・明智光秀が3日間にわたり徳川家康の饗応役を担当し、堺を含む各地から珍物を揃え4回にわたる食事で約140の品を提供する
[*]堺:大阪湾沿岸の都市、三国(摂津,河内,和泉)の境であったことから由来、石津川流域の下田町や鶴田町から竪穴建物跡を中心とする集落跡や土器金属器が出土、仁徳天皇陵古墳を含む約100の古墳が築造、河内鋳物師が金岡や日置荘周辺に居住し活躍、行基出身、東洋のベニス、環濠都市形成、堺会合衆が自治的な都市運営、鉄砲生産、二刀流の千利休や今井宗久らが活躍、堺奉行、堺事件、浜寺公園開園、旧堺燈台完成、与謝野晶子出身、堺水族館開館、浜寺海水浴場開場、大浜潮湯開業、日本初の民間定期航空便就航、いたすけ古墳保存決定、NPO法人観濠クルーズSakaiによる堺のんびりクルーズの運航開始、仁徳天皇陵古墳を含む百舌鳥古市古墳群の世界文化遺産登録決定、南蛮橋に佇む南蛮人像の名前(橋上ポルト之助)を巡る絵本「やくそくのリボン」完成

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本能寺の変14日前
5月17日
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・明智光秀は饗応役を解任され、安土城から坂本城へ移動する
[*]坂本城:滋賀県大津市下坂本にあった城、琵琶湖畔に位置、明智光秀の居城

・饗応役は、明智光秀から丹羽長秀,堀秀政,長谷川秀一,菅屋長頼らが担当する
[*]丹羽長秀:武将、大名、織田信長の重臣、佐和山城主、清須会議出席、マルチな才能を発揮し活躍、異名の「米五郎左」は米のようになくてはならない存在であることから由来
[*]堀秀政:武将、大名、織田信長の側近、豊臣秀吉の家臣、本願寺との交渉を担当、異名の「名人」は何事もそつなくこなすことから由来
[*]長谷川秀一:武将、大名、父は長谷川与次、織田信長の小姓、伊賀越えの案内を担当
[*]菅屋長頼:武将、子は菅屋角蔵、織田信長の側近、奉公衆、上使として単独で政務を執行できる強い権限を持つ

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本能寺の変13日前
5月18日
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・明智光秀は織田信長から饗応内容を叱責され、森成利に殴打される
[*]森成利:別名は蘭丸、父は森可成、武将、織田信長の近習としてトップクラス、抜群の気配りで優秀、好物は金平糖

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本能寺の変12日前
5月19日
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・織田信長は摠見寺で舞を鑑賞し上機嫌になるも、能を鑑賞すると不機嫌になり、再び舞を鑑賞する
[*]摠見寺:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦の安土城跡にある寺院、織田信長により城郭内に建立、御朱印が人気

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本能寺の変11日前
5月20日
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・織田信長が徳川家康へ京,大阪,奈良,堺の遊覧を提案し、案内を長谷川秀一へ命じる

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本能寺の変10日前
5月21日
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・徳川家康は織田信忠と上洛する
[*]織田信忠:幼名は奇妙丸、武将、大名、父は織田信長、子は織田秀信(三法師)、岐阜城主、19歳で家督を継承、武田信玄の子である松姫と婚約、能を好むも父に能道具を取り上げられ謹慎させられる、変時に二条新御所で自害

・長宗我部元親が斎藤利三へ手紙を宛てる
〈内容は敵対していた織田信長に従う旨〉
[*]長宗我部元親:武将、戦国大名、岡豊城主、四国のスター、敵対する前に織田信長へ砂糖3,000斤(約1,800kg)を贈呈、豊臣秀吉に臣従、優しい性格
[*]斎藤利三:生年や出自は不明、武将、明智光秀の家臣、子は春日局、堺出身の津田宗及と親交、山崎の戦い後に逃走し捕縛となり六条河原で処刑

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本能寺の変5日前
5月26日
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・明智光秀は坂本城から亀山城へ移動する
[*]亀山城:別名は亀岡城、京都府亀岡市荒塚町周辺にあった城、岡部長盛が改修

・徳川家康は遊覧に同行していた織田信忠,穴山信君らと清水寺で能を鑑賞する
[*]穴山信君:別名は梅雪、武将、母は武田信玄の姉である南松院、正室は武田信玄の子である見性院、武田信玄と武田勝頼の重臣、後に離反し徳川家康の与力
[*]清水寺:京都府京都市東山区清水にある寺院、坂上田村麻呂により建立、清水の舞台として名高い人気を誇る、音羽の滝より清らかな水が湧いていたことから由来

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本能寺の変4日前
5月27日
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・明智光秀は愛宕山に登り、3度くじを引くも全て凶を引く
[*]愛宕山:京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山、標高924m

・織田信忠は堺への遊覧を取り止め京に留まり、父である織田信長を迎え入れる旨を安土城にいた森成利へ伝える

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本能寺の変3日前
5月28日
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・明智光秀が愛宕山で催した連歌会に子である明智光慶,里村紹巴らが参加する
[*]明智光慶:武将、父は明智光秀、6歳で連歌会に初参加、ルイス=フロイスは「欧州貴族のように優美な人物」と評す
[*]里村紹巴:連歌師で師は里村昌休、門弟は松永貞徳ら、多数の武将と交流、西陣織生地の名物裂である「紹巴織」は里村紹巴が所持していたことから由来

・明智光秀は「時は今 天が下知る  五月哉」と詠み、愛宕山から亀山城へ移動する

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本能寺の変2日前
5月29日(末日)
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・織田信長が安土城を出発し、留守は蒲生賢秀,津田信益らが担当する
[*]蒲生賢秀:武将、織田信長の家臣、日野城主、忠節を尽くす性格、無欲の猛将といわれている
[*]津田信益:旗本、福井藩士、父は織田信清、母は織田信長の姉である犬山殿

・勧修寺晴豊は織田信長の上洛に伴い粟田口で待機するも、森成利の使者より「出迎えは無用」と伝えられ帰宅する
[*]勧修寺晴豊:公卿、父は勧修寺晴右、「晴豊公記」の著者
[*]粟田口:京都府京都市東山区

・吉田兼見と子である吉田兼治は織田信長の上洛に伴い山科で待機するも、森成利の使者より「出迎えは無用」と伝えられ帰宅する
[*]吉田兼見:公卿、神道家、吉田神社の神主、「兼見卿記」の著者、子は吉田兼治
[*]吉田兼治:貴族、神道家、父は吉田兼見
[*]山科:京都府京都市山科区

・織田信忠が妙覚寺に到着する
[*]妙覚寺:京都府京都市上京区にある寺院、本能寺から約1km、足利義輝,織田信長,伊達政宗らの宿所、豊臣秀吉により現在地へ移転

・織田信長が本能寺に到着する
[*]本能寺:京都府京都市中京区下本能寺前町にある寺院、日隆により創建、堺から約60km、5度の焼失と7度の再建を繰り返す、変の舞台、織田信長の供養塔、豊臣秀吉により現在地へ移転

・住吉に到着した織田信孝は、四国攻めのため渡海の準備を開始する
[*]住吉:大阪府大阪市
[*]織田信孝:武将、大名、父は織田信長、母は織田信長の側室である坂氏、神戸氏の養子、柴田勝家とお市の方の婚儀仲介を担当
[*]四国攻め:豊臣秀吉vs長宗我部元親

・徳川家康が穴山信君らと堺に到着し、松井友閑の屋敷に宿泊する
[*]松井友閑:武将、堺代官、織田信長の家臣、堺出身の津田宗及と親交、抜群の外交能力を発揮し活躍、遠方の大名との外交交渉を担当、織田信長へ幸若舞「敦盛(人間五十年)を指導、豊臣秀吉より処分を受け晩年は消息不明

・堺会合衆は松井友閑より徳川家康の接待を命じられ、各自準備を開始する
[*]堺会合衆:室町時代から安土桃山時代に堺の豪商や町衆のリーダーで構成された組織、メンバーは茜屋宗佐,油屋常琢,今井宗久,塩屋宗悦,千利休,高三隆達,津田宗及,紅屋宗陽,松江隆仙,山上宗二の10名

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本能寺の変1日前
6月1日
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・堺にいる今井宗久は朝食を兼ねた茶会を催し、徳川家康が参加する
[*]今井宗久:商人、茶人、戦国時代の二刀流、天下三宗匠で師は武野紹鷗、堺会合衆、一代で巨万の富を築く総合軍事産業の事業家リーダー、織田信長の天下統一を側面からフォロー、豊臣秀吉の御伽衆

・甘露寺経元,勧修寺晴豊が本能寺にいる織田信長のもとへ勅使として派遣され、上洛を祝福する
[*]甘露寺経元:公卿、父は冷泉為豊、甘露寺伊長の養子

・山科言経は織田信長と面会し、進物を贈呈するも返却される
[*]山科言経:公卿、言経卿記の著者、博識で多才、人気者といわれている

・織田信長は、島井宗室,神屋宗湛,近衛前久らを招き、千利休の進言により本能寺で茶会を催し、安土城で保管されていた「九十九茄子」を含む約40の名物茶器を披露する
[*]島井宗室:博多商人、茶人で師は堺出身の津田宗及の叔父である津田道叱、天下三肩衝の一つである茶器の「楢柴肩衝」を所持
[*]神屋宗湛:博多商人、茶人で師は蒲庵古渓、豊臣秀吉の側近、徳川家康より冷遇、堺出身の津田宗及と親交
[*]近衛前久:公卿、父は太政大臣である近衛稙家、織田信長と親交、趣味は鷹狩り
[*]千利休:堺出身、天下一のカリスマ茶人で師は武野紹鷗、茶聖で天下三宗匠、商人、堺会合衆、好物は胡麻、日本で初めて西瓜に塩をかけたといわれている
[*]九十九茄子:茶入、所有者は足利義満→山名是豊→伊佐宋雲→朝倉宗滴→越前小袖屋→松永久秀→織田信長→豊臣秀吉→有馬則頼→徳川家康→藤重藤元→岩崎弥之助

・天下三肩衝の三つのうち二つを所有していた織田信長は、あと一つを所有していた本能寺茶会の主賓である島井宗室へ商売の保護を条件に天下三肩衝の一つ「楢柴」を献上するよう命じる
[*]楢柴:茶入、天下三肩衝、所有者は足利義政→島井宗室→秋月種実→豊臣秀吉→徳川家康→秋暦の大火で破損し修繕→所在不明

・堺にいる津田宗及は茶会を催し、徳川家康,穴山信君,長谷川秀一らが参加する
[*]津田宗及:堺出身、商人、堺会合衆、茶人で師は父である津田宗達、蘭奢待を与えられた天下三宗匠、織田信長の茶頭、黒田如水と親交

・織田信長は子である織田信忠や側近らと本能寺で酒を飲み交わし、労いの言葉をかける

・織田信忠は本能寺から宿所である妙覚寺へ移動し就寝する

・本因坊算砂と林利玄が本能寺で囲碁の対局をするも織田信長は珍しい現象とされる不吉な「三コウ」を見る
[*]本因坊算砂(初代):家元本因坊家の始祖、囲碁の伝説棋士で師は堺出身である強豪の仙也、8歳で叔父である日淵の弟子となり出家、寂光寺の僧、三英傑へ指南した最強の名人、弟子は中村道碩,安井算哲,本因坊算悦ら
[*]林利玄:堺出身、家元林家の元祖、囲碁の天才棋士、本能寺の僧、本因坊算砂より6歳年下でライバルといわれているが晩年は不明
[*]三コウ:囲碁のルールの一つ、互いが交互に相手の石を取り無限に続きうる形

・織田信長は宿所である本能寺で就寝する

・堺にいる松井友閑は茶会を催し、徳川家康が参加し舞を鑑賞する

・徳川家康は宿所である堺の寺院で就寝する

・明智光秀は明智五宿老である明智秀満,明智光忠,斎藤利三,藤田行政,溝尾茂朝へ変の決意を打ち明け出陣する
[*]明智秀満:別名は左馬助、武将、明智光秀の重臣、正室は明智光秀の子、堺出身の津田宗及と親交、琵琶湖の湖上を馬で越えた伝説「明智左馬助の湖水渡り」エピソードが有名、山崎の戦い後に坂本城で自害、坂本龍馬と血縁関係といわれているが真偽は不明
[*]明智光忠:武将、明智光秀の家臣、八上城主、正室は明智光秀の子、子は細川忠興の側室、変時に負傷し知恩院で療養するも山崎の戦い後に坂本城で自害
[*]藤田行政:別名は伝吾、武将、明智光秀の重臣といわれているが半生は不明、山崎の戦い後に自害
[*]溝尾茂朝:通称は庄兵衛、武将、明智光秀の家臣、孫は徳川家綱の乳母である三沢局、明智光秀の介錯後に自害

・明智光秀は約13,000の兵と桂川を渡る

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本能寺の変〜当日〜
6月2日
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・起床した織田信長は洗顔をする

・午前4時頃に明智光秀が本能寺を包囲する

・先頭にいた本城惣右衛門が本能寺の中へ突入する
[*]本城惣右衛門:家系や出自は不明、明智光秀の家臣、「本城惣右衛門覚書」の筆者

・騒音と銃声が響き始め、織田信長は子である織田信忠の謀反を疑い、森成利に問う
「(織田信長)信忠の謀反か、いかなる者の企てか」
「(森成利)水色桔梗の旗印、明智の軍勢と見受けます」
「(織田信長)是非に及ばず」

・すぐさま御殿に移動した織田信長は防衛態勢の配置をし、女房衆へ脱出を命じる

・本能寺に宿泊していた島井宗室は「千字文」を、神屋宗湛は「遠浦帰帆図」を持ち出し脱出する
[*]千字文:空海作、現在は福岡県福岡市博多区にある東長寺に保管
[*]遠浦帰帆図:牧谿作、現在は京都府京都市東山区にある京都国立博物館に保管

・厩舎にいた矢代勝介,伴正林,村田吉五らが敵陣に斬り込むも討死する
[*]矢代勝介:馬術名人
[*]伴正林:武士、織田信長の家臣、常楽寺相撲大会で連戦連勝
[*]村田吉五:力士、常楽寺相撲大会に出場

・高橋虎松が台所でしばらく敵を寄せつけないほど奮戦するも力尽きる
[*]高橋虎松:武将、織田信長の小姓としてトップクラス、弟は高橋藤丸

・御殿にいた18歳の森成利(蘭丸),17歳の森長隆(坊丸),15歳の森長氏(力丸)ら兄弟が敵勢に立ち向かうも討死する
[*]森長隆:別名は坊丸、父は森可成、織田信長の小姓、正確かつ賢明な性格
[*]森長氏:別名は力丸、父は森可成、織田信長の小姓

・小河愛平,菅屋角蔵,狩野又九郎,久々利亀,祖父江孫,一雲斎針阿弥,大塚孫三らが奮戦するも御殿で討死する
[*]小河愛平:武将、織田信長の小姓
[*]菅屋角蔵:武将、織田信長の小姓、父は菅屋長頼
[*]狩野又九郎:武将、織田信長の小姓、伝聞を担当
[*]久々利亀:武将、織田信長の小姓
[*]祖父江孫:武将、織田信長の小姓、父は祖父江秀重
[*]一雲斎針阿弥:織田信長の同朋衆、公家や寺院への使者を担当
[*]大塚孫三:織田信長の小姓、馬廻衆

・御殿にいた柏原大鍋,柏原小鍋ら兄弟が討死する
[*]柏原大鍋:別名は鍋丸、弟は柏原小鍋、織田信長の小姓
[*]柏原小鍋:兄は柏原大鍋、出自は不明

・町内に宿泊していた小倉松寿,湯浅直宗らへ変報が届き、本能寺へ駆け付け奮戦するも討死する
[*]小倉松寿:武将、母は興雲院、変時は御番衆を担当
[*]湯浅直宗:武将、織田信長の近習、桶狭間の戦いや長篠の戦いで活躍

・弓から槍に取り替え奮戦していた織田信長は、障子を閉め殿中に篭り内側から納戸を閉めるも安田国継に障子越しに槍で突かれ、致命傷を負う
[*]安田国継:通称は作兵衛、変後は天野源右衛門へ改名、武将、斎藤利三の家臣、変から15年後の1597年6月2日に頬の出来物の悪化を苦に自害、命日である6月2日は織田信長と同日

・織田信長が自害するー49歳ー

・柳原にいた土方次郎兵衛へ変報が届き、本能寺へ駆け付けるも主君である織田信長の最期に間に合わなかったことを恥じ、自害する
[*]土方次郎兵衛:織田信忠の家臣
[*]柳原:京都府紀伊郡にあった町

・玉誉清玉へ変報が届き、約20の僧と本能寺へ駆け付け裏より中へ入る
[*]玉誉清玉:阿弥陀寺の僧、母は織田信長の兄である織田信広に救助されるも玉誉清玉を出産後に他界、織田信長の幻の弟として養育される、変で自害した織田信長と子である織田信忠らを含む変による多数の犠牲者を供養、織田信長の葬儀を依頼した豊臣秀吉の申し出を再三却下、却下後は豊臣秀吉からの弾圧により阿弥陀寺の規模が縮小、森成利(蘭丸)の遺族が布施を継続したことで阿弥陀寺は存続

・本能寺の裏の藪で約10の近習が織田信長の遺骸
を火葬しようとしていたのを見付けた玉誉清玉は、供養する約束をし織田信長の遺骸の引き渡しを要求する

・織田信長の遺骸を火葬しようとしていた約10の近習は、玉誉清玉に託す

・妙覚寺に宿泊していた織田信忠へ変報が届き、救援するため父である織田信長のいる本能寺へ移動する

・本能寺正門前の邸にいた村井貞勝は、本能寺へ移動しようとしていた織田信忠を制止し、構えが堅固で防衛力が高い二条新御所へ移動することを進言する
[*]村井貞勝:武将、二条御所の造営や京都御所の修築を担当、京都所司代として織田信長支配体制下における京都に関する全行政を担当、ハードスケジュールをこなすスーパーエリート

・二条新御所へ移動した織田信忠は、親王一家,公卿衆,女官衆を脱出させる

・織田信長とされる遺体の検分が開始されるも別人と判明する

・午前8時頃に明智光秀は織田信忠のいる二条新御所へ移動する
[*]二条新御所:京都府京都市中京区二条殿町にあった御所、烏丸-室町の御池上る周辺に織田信長が設けた城館、変後に灰燼、跡地に大雲院が建立

・織田信忠は、毛利良勝,福富秀勝,菅屋長頼らと軍議する
[*]毛利良勝:武将、織田信長の小姓あるいは馬廻衆、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る
[*]福富秀勝:武将、織田信長の家臣、赤母衣衆、馬廻衆

・明智光秀が二条新御所を包囲する

・町内に宿泊していた菅屋長頼へ変報が届き、平古種吉ら奉公衆と本能寺へ駆け付けるも混乱していたため中へ入ることができず、二条新御所へ移動する
[*]平古種吉:武将、織田信長の家臣、奉公衆、堺出身の津田宗及開催の茶会に出席

・就寝していた勧修寺晴豊へ変報が届き、二条新御所へ駆け付けるも混乱していたため二条新御所の中へ入ることができず外で待機する

・二条新御所で奮戦していた下方弥三郎は負傷し脇腹から腸がはみ出し、織田信忠より「勇鋭と言うべし、今生で恩賞を与える事はかなわぬが願わくば来世において授けようぞ」と声を掛けられ、感激し笑いながら敵中に駆け出し討死する
[*]下方弥三郎:武将、織田信忠の小姓

・ともに16歳の佐々清蔵と山口小弁が奮戦するも力尽きる
[*]佐々清蔵:武将、織田信忠の小姓、父は佐々成政の兄である佐々政次
[*]山口小弁:武将、織田信忠の小姓

・津田元嘉,下石頼重,毛利良勝らが敵勢に立ち向かうも討死する
[*]津田元嘉:武将、奉公衆、織田信長の家臣
[*]下石頼重:武将、織田信長の家臣、馬廻衆、奉公職、津田宗及と親交
[*]毛利良勝:通称は新介、武将、織田信長の側近、馬廻衆、黒母衣衆、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る

・奮戦していた服部小藤太,赤座永兼,服部六兵衛,坂井越中守らが討死する
[*]服部小藤太:織田信長の家臣、馬廻衆、兄は織田信長の盟友である服部一忠
[*]赤座永兼:武将、織田信長の家臣、弟は桑原助六、堺出身の津田宗及開催の茶会に出席
[*]服部六兵衛:織田信長の馬廻衆、村井貞勝の与力
[*]坂井越中守:武将、織田信長の家臣、織田信忠の側近

・塙伝三郎,春日源八郎,桑原助六らが二条新御所で討死する
[*]塙伝三郎:織田信忠の家臣、兄は原田直政
[*]春日源八郎:織田信長の家臣、馬廻衆
[*]桑原助六:武将、兄は赤座永兼、足利義昭の守備を担当、織田信忠の馬廻衆

・織田長利,織田勝長らが敵陣に斬り込むも討死する
[*]織田長利:武将、父は織田信秀、母は岩室殿、異母兄は織田信長、子は織田信雄の側室
[*]織田勝長:武将、父は織田信長、養子として岩村城へ入府、犬山城主

・町内に宿泊していた小沢六郎三郎へ変報が届き、人々の反対を押し切り明智光秀の家臣を装いながら潜り抜け、織田信忠へ挨拶をした後に奮戦するも討死する
[*]小沢六郎三郎:織田信長の近習、石奉行

・梶原又右衛門は、病で伏せていた子である梶原松千代と二条新御所へ駆け付けるも討死する
[*]梶原景久:武将、織田信長の家臣、羽黒城主、子は梶原松千代
[*]梶原松千代:織田信長の小姓、父は梶原景久

・織田信長に従い上洛していた野々村正成は二条新御所に駆け付けるも戦闘に加われず追腹する
[*]野々村正成:武将、織田信長の側近、黒母衣衆

・水野忠重は難を逃れ、刈谷に戻る
[*]水野忠重:武将、大名、姉は徳川家康の母である於大の方、異母兄は水野信元、子は加藤清正の継室(後妻の正室)である清浄院

・織田信忠へ自害を進言した織田長益は安土城を経て岐阜へと逃れる
[*]織田長益:号は有楽斎、大名、父は織田信秀、異母兄は織田信長、正室は平手政秀の子である雲仙院、茶人で師は堺出身の千利休、利休十哲、茶道有楽流を創始、有楽町は号である「有楽」に由来

・織田信忠は前田玄以へ、縁の板を引き離しその中に自身の遺体を隠すこと及び子である織田秀信を保護し清洲城へ逃れることを命じる
[*]前田玄以:僧、武将、大名、正室は村井貞勝の子、織田信忠の家臣、京都所司代、豊臣政権の五奉行、亀山城主
[*]織田秀信:幼名は三法師、武将、キリシタン大名、父は織田信忠、祖父は織田信長、織田政権三代当主、岐阜城主、3歳で家督を継承、9歳で元服、洒落者といわれている

・前田玄以は織田秀信を保護し、二条新御所を脱出し岐阜城を経て清須城へ逃れる

・織田信忠が自害するー26歳ー

・織田信忠の介錯をした鎌田新介は二条新御所から脱出する
[*]鎌田新介:武将、鎌田三兄弟の三男

・村井貞勝は、弟である村井宗信,子である村井貞成,村井清次らと討死する
[*]村井宗信:武将、兄は村井貞勝、吉田兼見と親交、寺社や公家との交渉を担当
[*]村井貞成:武将、父は村井貞勝、織田信長の家臣、馬廻衆
[*]村井清次:武将、父は村井貞勝、変に至るまでの生涯は不明

・斎藤利治,猪子兵助,団忠正,毛利良勝,福富秀勝,菅屋長頼らが討死する
[*]斎藤利治:武将、父は斎藤道三、同母姉は濃姫、織田信忠の側近、正室は佐藤忠能の娘である正室院、生涯側室を迎え入れなかったといわれている
[*]猪子兵助:武将、斎藤道三の家臣、織田信長の近習、武将との仲介を担当
[*]団忠正:武将、大名、織田信忠の側近、非常に血気盛んな人物といわれている

・松野一忠へ変報が届き、二条新御所へ駆け付けるも明智光秀への降伏を進言され、拒否した後に遺書を残し自害する
[*]松野一忠:武将、安藤守就の重臣、織田信長の家臣、吉田松陰(変名は松野他三郎)は子孫といわれている

・弥助が刀を差し出し降伏する
[*]弥助:アフリカから日本に渡来した黒人男性、宣教師の護衛、織田信長の家臣、変後に捕虜となり消息不明

・午前10時頃に安土城で留守をしていた蒲生賢秀へ変報が届く

・織田信長と織田信忠の遺体の行方が不明のため、明智光秀は焦燥する

・午後2時頃に明智光秀は二条新御所の包囲を解く

・玉誉清玉は明智光秀に掛け合い、変による多数の犠牲者を供養する許可を得る

・午後4時頃に明智光秀は瀬田に到着する
[*]瀬田:滋賀県大津市

・山岡景隆,山岡景佐ら兄弟に協力要請を断られた上に瀬田唐橋を焼き落とされた明智光秀は、安土城への移動を断念し修復を開始する
[*]山岡景隆:武将、織田信長の家臣、晩年は豊臣秀吉と敵対し所領を没収され甲賀に隠遁
[*]山岡景佐:武将、織田信長の直臣、佐久間信盛の与力
[*]瀬田唐橋:滋賀県大津市瀬田-唐橋町の瀬田川に架かる橋、日本三大橋、平成30年(2018)8月には11年ぶりに観光屋形船の運航再開、瀬田しじみが絶品

・明智光秀は西尾光教より協力要請を断られる
[*]西尾光教:武将、大名、織田信長の家臣、曽根城主

・山崎片家へ変報が届き、安土に構えていた邸を焼き払い居城の山崎城へ籠るも明智光秀の圧力を受け降伏する
[*]山崎片家:武将、大名、子は加藤清正の正室、織田信長の家臣、山崎城主

・本能寺より約0、1kmの距離にある邸にいた茶屋四郎次郎清延は飯盛山周辺にいた徳川家康と穴山信君らへ変報を届ける
[*]茶屋四郎次郎清延(初代):本姓は中島、号は茶屋、豪商、呉服屋、徳川家康の側近、食料品や軍用品の調達や情報提供を担当、三代目である茶屋四郎次郎清次が徳川家康へ鯛の天麩羅を勧めたといわれている
[*]飯盛山:大阪府四條畷市にある山、名物は階段、山頂からの眺望は圧巻

・徳川家康は伊賀越えを敢行し、油屋常琢が支援する
[*]伊賀越え:徳川家康が約30の重臣や小姓らと畿内から伊賀を経た三河への帰還
[*]油屋常琢:本姓は伊達、号は油屋、薬師問屋、商人、堺会合衆、名物茶器所有、妙国寺改築

・徳川家康と別行動をした穴山信君は郷民一揆より執拗な襲撃を受け殺害される

・本能寺より約0、2kmの距離にある南蛮寺にいた宣教師が九州にいたルイス=フロイスへ変報を送る
[*]南蛮寺:京都府京都市中京区にあった教会堂、規模は建設当時国内最大級、教会堂建設の指揮はグネッキ=ソルディ=オルガンティノ
[*]ルイス=フロイス:ポルトガル人宣教師、イエズス会員、31歳で来日し布教活動開始、「日本史」の著者

・長谷川宗仁は豊臣秀吉へ変報を送る
[*]長谷川宗仁:武将、茶人で師は武野紹鷗、画家、豊臣秀吉の側近、堺出身の津田宗及と親交

・岸和田城にいた織田信孝へ変報が届く

・堺にいた今井宗久へ変報が届く

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本能寺の変から1日後
6月3日
ーーーーーーーーーー
・明智光秀は蒲生賢秀より協力要請を断られる

・午前6時頃に蒲生賢秀は安土城より財物を持ち出すことを進言されるも天下の笑い者になるという理由で断り、織田信長の女房衆を日野城に避難させる
[*]日野城:滋賀県蒲生郡日野町にあった城、日野の地域名をとり別名は中野城

・安土城の守備は木村高重が担当する
[*]木村高重:武将、織田信長の家臣、安土城天守閣創設の普請奉行を担当

・長浜城にいた豊臣秀吉の母である大政所,正室の高台院,高台院の兄である木下家定らへ変報が届く
[*]長浜城:別名は今浜城、滋賀県長浜市にある城、豊臣秀吉の最初の居城、元和元年(1615)に廃城、城跡には桜や紅葉が圧巻の豊公園開園、昭和58年(1983)に現在地へ新城を復元、周辺にある慶雲館や黒壁スクエアは人気観光スポット
[*]大政所:名は仲、妹は福島正則の母である松雲院、子は豊臣秀吉、孫は豊臣秀頼
[*]高台院:通称は北政所、諱は寧々、豊臣秀吉の正室、兄は木下家定、甥は小早川秀秋
[*]木下家定:大名、妹は高台院、子は小早川秀秋

・長浜城から脱出した大政所,高台院らの警護は称名寺の僧である性慶の進言により広瀬兵庫助が担当し、大吉寺へ移動し難を逃れる
[*]称名寺:滋賀県長浜市尊勝寺町にある寺院、湖北十ヶ寺
[*]性慶:称名寺の僧、浅井郡代官
[*]広瀬兵庫助:豊臣秀吉の家臣、父は広瀬康則
[*]大吉寺:滋賀県長浜市にある寺院、源頼朝とゆかりがあるといわれている

・宮津城にいた細川藤孝へ変報が届き、細川忠興は正室である細川ガラシャを味土野に幽閉する
[*]宮津城:京都府宮津市にあった城、細川藤孝が築城、幻の海城といわれている
[*]細川藤孝:武将、戦国大名、異母兄は三淵藤英、正室は沼田麝香、生涯側室を迎え入れなかったといわれている、茶人で師は堺出身の千利休、当代随一の教養人
[*]細川忠興:武将、大名、正室は明智光秀の子である細川ガラシャ、茶人で師は堺出身の千利休、利休七哲、茶道三斎流を創始、気が短い性格といわれている
[*]細川ガラシャ:本名は明智玉、父は明智光秀、細川忠興の正室、キリシタン
[*]味土野:京都府京丹後市弥栄町

・多羅尾光俊が徳川家康の伊賀越えを支援する
[*]多羅尾光俊:武将、孫娘は豊臣秀次の側室

・備中高松にいる豊臣秀吉へ変報が届き、黒田孝高は毛利輝元との和平や中国大返しを進言する
[*]備中高松:岡山県岡山市
[*]黒田孝高:通称は官兵衛、武将、軍師、キリシタン大名、正室は櫛橋光、生涯側室を迎え入れなかったといわれている、豊臣秀吉の側近、茶人で師は堺出身の千利休、「黒田如水茶湯定書」の著者、三大築城名手、有馬温泉で療養滞在

・安国寺恵瓊は豊臣秀吉に和平へ向けた交渉をする

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本能寺の変から2日後
6月4日
ーーーーーーーーーー
・豊臣秀吉は和平の条件として備中高松城主である清水宗治へ切腹を要求し、変報を厳重に秘した上で毛利輝元と和平を結ぶ
[*]清水宗治:武将、備中高松城主、兄は清水宗知、弟は難波宗忠、小早川隆景の家臣、戦国武将の鑑といわれている
[*]毛利輝元:武将、大名、父は毛利隆元、祖父は毛利元就、関ヶ原の戦い西軍総大将

・和平のため要求された条件を承諾した清水宗治らは対岸にいる豊臣秀吉のもとへ船で漕ぎ寄せる

・船で漕ぎ寄せた清水宗治,兄である清水宗知,弟である難波宗忠,援将である末近信賀が船上で切腹し、介錯は国府市之允が務める
[*]清水宗知:別名は月清入道、武将、勇猛、弟は清水宗治,難波宗忠
[*]難波宗忠:武将、養父は難波常任、兄は清水宗知,清水宗治
[*]末近信賀:武将、小早川隆景の家臣、領地経営に尽力
[*]国府市之允:清水宗治の家臣

・介錯を務めた国府市之允は切腹した4名の首を桶に納め、豊臣秀吉へ届けた後に自害する

・豊臣秀吉は撤退準備を開始する

・明智光秀は修復を完了させた瀬田唐橋を渡り、安土城へ移動する

・徳川家康は三河に到着する

・魚津城にいた柴田勝家へ変報が届く
[*]魚津城:富山県魚津市にあった城、魚津市指定史跡、魚津城の戦いの舞台
[*]柴田勝家:通称は権六、武将、大名、織田信長の家臣で重要なポジション、津田信澄を養育、清須会議出席、正室はお市の方、勇猛で律儀な性格、ライバルは豊臣秀吉、異名の「瓶割り柴田」エピソードが有名

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本能寺の変から3日後
6月5日
ーーーーーーーーーー
・明智光秀が安土城に到着する

・四国攻めに参加していた津田信澄は明智光秀の女婿という理由で内通を疑われ、織田信孝,丹羽長秀に襲撃され上田重安に殺害される
[*]津田信澄:武将、父は織田信勝、叔父は織田信長、正室は明智光秀の子である花渓眞英大姉、柴田勝家が養育、近江大溝城主
[*]上田重安:武将、大名、茶人で師は堺出身の千利休、造園家で名古屋城二の丸庭園の作庭を担当

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本能寺の変から4日後
6月6日
ーーーーーーーーーー
・豊臣秀吉が中国大返しを開始する
[*]中国大返し:豊臣秀吉が毛利輝元と和平を結び、明智光秀を討つため備中高松から京に向け軍を返した移動

・織田信長の側室である興雲院は避難した日野城から岐阜城へ移動し、崇福寺へ黒印状を出す
〈内容は織田信長の菩提を弔う位牌所の確保依頼の旨〉
[*]興雲院:通称はお鍋の方、父は高畑源十郎、織田信長の側室、豊臣秀吉の正室である高台院の側近
[*]崇福寺:岐阜県岐阜市にある寺院、ドウダンツツジの紅葉が有名

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本能寺の変から5日後
6月7日
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・前橋城にいた滝川一益へ変報が届く
[*]前橋城:別名は厩橋城、群馬県前橋市にあった城、関東七名城、車橋門跡は前橋市指定史跡
[*]滝川一益:武将、大名、織田四天王、堺で鉄砲の射撃と製造技術を学び腕前は百発百中、「国よりも茶器が欲しかった」の発言が有名

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本能寺の変から6日後
6月8日
ーーーーーーーーーー
・明智光秀は安土城から坂本城へ移動する

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本能寺の変から7日後
6月9日
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・明智光秀は細川藤孝より再三の協力要請を断られる

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本能寺の変から8日後
6月10日
ーーーーーーーーーー
・明智光秀は筒井順慶より協力要請を断られる
[*]筒井順慶:武将、戦国大名、筒井城主、郡山城主、2歳で家督を継承、教養人

・明智光秀は淀城や勝竜寺城の修築を開始する
[*]淀城:京都府京都市伏見区淀本町にあった城、豊臣秀吉の側室である淀殿の産所
[*]勝竜寺城:京都府長岡京市勝竜寺にあった城、細川忠興と細川ガラシャが結婚式を挙げ新婚生活を過ごしたといわれている、毎年11月の第2日曜日に「長岡京ガラシャ祭」開催

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本能寺の変から9日後
6月11日
ーーーーーーーーーー
・三軒屋に到着した豊臣秀吉を討ち取るため、四王天正孝が刀をくわえようとするも歯が欠けて刀を落とし、その隙に加藤清正に討たれる
[*]三軒屋:兵庫県西宮市
[*]四王天正孝:武将、大名、弟は四王天正実、明智光秀の家臣
[*]加藤清正:武将、大名、肥後熊本藩初代藩主、賤ヶ岳の七本槍、築城名手、特技は口の中に拳を入れること、朝鮮出兵で長生飴を非常食として常備

・岡崎にいた徳川家康は雨天のため出陣を延期する

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本能寺の変から10日後
6月12日
ーーーーーーーーーーー
・明智光秀はイエズス会の宣教師であるグネッキ=ソルディ=オルガンティノを通し、高山右近へ協力要請をするも断られる
[*]グネッキ=ソルディ=オルガンティノ:イタリア人宣教師、イエズス会員
[*]高山右近:武将、キリシタン大名、茶人で師は堺出身の千利休、利休七哲、非常に真面目な性格

・豊臣秀吉は富田に到着し、高山右近,織田信孝,丹羽長秀,池田恒興らと合流する
[*]池田恒興:武将、大名、織田信長の重臣、清須会議出席、子は約200の女性銃士からなる部隊を指揮したといわれている池田せん

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本能寺の変から11日後
6月13日
ーーーーーーーーーーー
・豊臣秀吉が山崎に到着し、宝積寺に本陣を置く
[*]山崎:山崎(京都府乙訓郡大山崎町)から勝竜寺城(京都府長岡京市)一帯
[*]宝積寺:別名は宝寺、京都府乙訓郡大山崎町大山崎にある寺院、建立は行基

・午後4時頃に山崎の戦いが開始する
[*]山崎の戦い:明智光秀軍約16,000の兵vs豊臣秀吉軍約40,000の兵

・午後7時頃に山崎の戦いが終了する

・明智光秀は勝竜寺城から近臣らと居城である坂本城へ移動する

・豊臣秀吉が陣を敷いた宝積寺で千利休が勝利の茶を点てる

・豊臣秀吉は宝積寺から移動し淀城を宿所とする

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本能寺の変から12日後
6月14日
ーーーーーーーーーーー
・午前2時頃に13騎中6騎目にいた明智光秀は、小栗栖で落ち武者狩りをしていた百姓である中村長兵衛に襲われ、槍が脇の下に刺さり負傷する
[*]小栗栖:京都府京都市伏見区
[*]中村長兵衛:小栗栖の百姓とされているが村人で中村長兵衛を知る人がいないため出自は不明

・明智光秀は最期を悟り、溝尾茂朝へ介錯を命じる

・明智光秀が自害するー55歳ー





以上、「よろづ、本能寺」でした。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【よろづ、本能寺クイズコーナー〈難問度:★〉】
天正10年(1582)6月27日に開かれた織田家の継嗣問題及び領地再分配に関する会議は、次のうちどれでしょうか?
1、清須会議
2、楽市楽座
3、南蛮貿易
正解は・・・次回のブログで発表しますので是非チェックして下さいませ。

【内田裕也クイズ正解発表 】
前回、令和五年(2023)7月26日のブログ「内田裕也」で出題したクイズの正解は「3、洗濯」です。

【クルーズの見たい!聞きたい!知りたい!情報コーナー】
本年度の運航がスタートしております。
多くのお客様にご予約いただいておりますこと、この場をお借り致しまして、感謝申し上げます。
皆様のひとときに華を添えられるよう努めて参りたいと思いますので、堺のんびりクルーズを様々なシチュエーションでご利用下さいませ。
また、ボランティアスタッフを募集しておりますので、お気軽にお問合せ下さいませ。

NPO法人観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズ
ガイド:松永

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内田裕也

挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

色鮮やかに咲く紫陽花が雨に映え、晴れ間の青空に心が和む今日この頃、いつもブログコーナーをご高覧いただきましてありがとうございます。
夏の到来を迎え、蒸し暑い日が続いておりますので、お身体ご自愛下さいませ。

【内田裕也】諸説あり
内田裕也
ミュージシャン
昭和十四〜平成三一年(1939〜2019)

兵庫県西宮市に生まれ、大阪府堺市で育ちました。
堺市立大美野小学校を卒業し堺市立三国丘中学校へ入学、やがて清教学園中学校に転入し生徒会副会長を務めます。
そして、大阪市立旭陽中学校へ転入しラグビー部に入部、スポーツや勉強を熱心に取り組みました。

やがて、大阪府立旭高等学校へ入学し野球部に入部しますがエルヴィス・プレスリーに憧れ退学、大阪府立三国丘高等学校に転校し、卒業後は日本大学法学部の夜学へ、しばらくして中退しました。

まもなく、バンドボーイとして音楽生活をスタートさせ、佐川満男とともにバンドボーイ兼ボーカルとしてロカビリー・バンドのブルー・キャップスを結成し大手芸能事務所に所属、同年には音楽フェスティバル「日劇ウエスタンカーニバル」へ初出場します。

次第にロックを強めた活動に転換し、1966年6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドでウェルカム・ビートルズなど数曲を演奏し、前座を務めました。

このようにして、ロックンロール人生の幕が開いていきます・・・
やがて日本のロックのトップとなり牽引、そして数々の名言と伝説エピソードが残されます。
それでは、振り返ってみましょう。

〈名言〉
1:俺がロック一筋で通せたのはヒット曲がなかったから
2:俺は占い師じゃないけど、目を見てたら嘘ついてるかどうか分かるからな
3:ロックンロールに定義はないんだけど、僕はアートの中で一番カッコいいジャンル

〈伝説エピソード〉
1:大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していたザ・タイガースをスカウトしたといわれています
2:飲食店で和田アキ子と先輩論について喧嘩になりそうになったといわれています
3:「ロックンロール」という決め台詞は、前座を務めたビートルズのメンバー、ジョン・レノンが志半ばでお亡くなりになられたため彼の分もという思いがあるといわれています

圧倒的な存在感でロックンロールを貫き通した人生は、決め台詞とともに多くの方に元気を与えてくれました。
だからこそ、また決め台詞を聞いて元気を与えて欲しいと思うときがあるのです・・・「ロックンロール!」と。

以上、「内田裕也」でした。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

*[尾藤イサオ]
百面相や形態模写を得意とした寄席芸人の父と芸人の母に生まれ、中学校時代にエルヴィス・プレスリーに興味を持つ
曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となり鏡味鉄太郎を名乗り、太神楽の曲芸師として活躍する
「悲しき願い」が大ヒットし、アニメ「あしたのジョー」の主題歌を担当して人気を集める

*[ジャッキー吉川]
小中学校時代を八王子市で過ごし、高校時代はジーン・クルーパへの憧れから独学でドラムを始める
歌手を希望していたが、高校2年生の時に先輩のブルー・コメッツのリーダー大橋道二の紹介でバンドのバンドボーイとなる
ドラムの演奏技術を磨き続け、ブルー・コメッツの正式メンバーとなり、やがて中心的存在となる
かつて、水泳選手として全国大会で入賞した実力を持っている

【レッツ!トライ!内田裕也クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
中学校時代に○○機に関する発明コンクールで見事優勝をしました。
さて、この○○に入るのは次のうちどれでしょうか?
1、掃除
2、空気清浄
3、洗濯
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 「宗」の由来クイズ〜正解発表〜 】
令和五年(2023)4月18日のブログ[宗の由来]で出題したクイズの正解は「3、一休さん」です。

【クルーズのオススメグッズ紹介コーナー】
[商品名]古墳キーホルダー
[価格]一個400円(税込)
本日のオススメグッズは、「古墳キーホルダー」です。
古墳ファンなら1つや2つ、お持ちの方もおられるとか?おられないとか?といわれているほど人気が高いグッズです。
ぜひ一度、お手にお取り下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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【「宗」の由来】〜諸説あり〜

【挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
今年も桜が美しく咲き誇り、笑顔や勇気を与えてくれました。
遡ること晴天の桜満開日、大人の遠足と題して朝早く起きお弁当を作り大仙公園でお花見をして参りました。
幸せなひとときを過ごせたお礼と来年も強く逞しく咲き誇りますようお祈りをして、名残り惜しくその場をあとに致しました。
暑い日も寒い日も乗り越えて今年も咲いてくれた桜に「ありがとう」を伝え・・・

【「宗」の由来】〜諸説あり〜

茜屋宗佐,今井宗久,塩屋宗悦,千宗易(千利休)津田宗及,紅屋宗陽,山上宗二、以上の堺会合衆のメンバーにおいて共通しているのは・・・
偶然なのか?必然なのか?
名前に「宗」がついているというところです。

財力があり、大きな商売を手広く営んでいた商人は「豪商」と呼ばれていました。
その豪商は、同時に「茶人」も多くいたといわれています。
茶道において、師から奥義を全て教えられた弟子につける名前を「茶名」といい、この茶名に「宗」がつくということはイコール茶人であるということになりました。

例えば先に述べたメンバーより、茜屋宗佐は茶人として活動する傍ら輸入雑貨商として活躍していたり、今井宗久は天下一の商人にして天下三宗匠といわれていたり、津田宗及は豪商で蘭奢待を与えられた茶人として活躍していたり、「豪商」であると同時に「茶人」としても活躍していました。
いわば、今で言う「二刀流」ということなのかもしれません。

しかし、この茶名に「宗」が用いられ始めたのは、いつからなのでしょうか?
それは、室町時代の茶人・村田珠光(むらたじゅこう)の後継者・村田宗珠(むらたそうしゅ)が大徳寺より「宗」の一字を授けられたことに遡るといわれています。

村田珠光は、侘び茶の創始者といわれ茶の湯に禅の精神を加え精神的な深みの漂う作法を創り出し、「不完全な美」を唱えました。
茶人と同時に僧といわれ、実子がなく興福寺尊教院で雑務を行う弟子の村田宗珠を養子に迎えます。

村田宗珠は、村田珠光の養子となり後継者として侘び茶の発展に寄与し「市中の山居」を確立させました。
やがて、侘び茶に新風を吹き込んだ確立者として、当時の語録に評された記録が残されています。

つまり、「宗」の由来は・・・
村田宗珠が大徳寺より「宗」の一字を授けられ、それ以来家元から指南を許されると「宗」の字をつけられるようになった、ということでした。

以上、「宗」の由来でした。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!「宗」の由来クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
「宗」の由来は、村田宗珠が大徳寺より「宗」の一字を授けられたことに遡りました。
その大徳寺は、京都にある有数の規模を誇る禅宗寺院で、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、○○○○をはじめとする名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深いといわれています。
さて、この○○○○に入るのは次のうち誰でしょうか?
1、清少納言
2、小野妹子
3、一休さん
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 華岡青洲・鹿城兄弟クイズ〜正解発表〜 】
令和五年(2023)2月13日のブログ[華岡青洲・鹿城兄弟]で出題したクイズの正解は「1、緒方洪庵」です。

【クルーズの見たい!聞きたい!知りたい!情報コーナー】
本年度は、4月1日(土)より運航を開始しております。
多くのお客様にご乗船いただいておりますこと、この場をお借り致しまして、感謝申し上げます。
お一人・ご友人・パートナー・ご家族、様々なシチュエーションでご利用下さいませ。
皆様のひとときに華を添えられるよう、努めて参りたいと思います。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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【華岡青洲・鹿城兄弟〜そして少林寺〜】諸説あり

【挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
立春を迎え、煮物や天麩羅でいただく春野菜がとても美味しい季節となりました。
皆様にとりまして、幸多き今春になりますようお祈り申し上げます。
さて、ブログコーナーを手軽に!身近に!合間に!チェックしていただけますよう、一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信出来ますよう務めて参りたいと思いますので、引き続き宜しくお願い申し上げます。

【華岡青洲・鹿城兄弟〜そして少林寺〜】諸説あり
兄・華岡青洲(はなおかせいしゅう)
医師
宝暦十年〜天保六年(1760〜1835)

弟・華岡鹿城(はなおかろくじょう)
医師
安永八年〜文政十年(1779〜1827)

「北岡南岡に譲らず」といわれた兄弟がいました。
北岡は弟・華岡鹿城を、南岡は兄・華岡青洲のことを指しているといわれています。

兄・青洲は、和歌山県紀の川市で代々医術を家業とし南蛮流外科術を身に付けた父・直道と美しく憧れられていた母・於継の長男として生まれました。
地元の方から厚く信頼を寄せられていた父の姿に感銘を受け、医師を志し京都へ遊学します。
やがて、和歌山へ帰郷し跡を継ぎ開業してまもなく父が亡くなり、京都への遊学を支援するため織物や薬草栽培をして支援してくれていた優しい妹・於勝が乳癌で亡くなります。
「手術さえ出来ていれば妹の命を救えたかもしれない」という悔しい思いや「麻酔薬が無い手術には耐え難い痛みや苦しみを伴うため、手術における患者の痛みや苦しみを和らげたい」という思いから、寝る間も惜しんで研究を重ね、いつどんなときも傍で支え続けてくれた妻・加恵と想いを一つにし、ついに麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を開発しました。
そして、世界で初めて全身麻酔を用いた乳癌手術を成功させます。
やがて、全国から手術を希望する者や入門を希望する者が殺到し、門下生の育成にも力を注げるよう、住居兼病院及び医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設け、1000人を超える門下生を育てました。
さらに、春林軒の分塾「合水堂(がっすいどう)」を中之島に設けます。
治療に加え薬の調合や発明、医塾での医学教育、また術式の考案や手術器具の考案改良を行い、「医聖」と称されました。
患者に寄り添い続け、深い悲しみと向き合いながら家族の献身的な支えのもと、情熱を注ぎ続けたからこそ、世界の医学史に残る偉大な功績を残せたのかもしれません。

弟・鹿城は、和歌山県紀の川市で父・直道と母・於継の四男として生まれました。
20歳離れた兄・青洲に倣い17歳で京都へ遊学します。
「気血水説」を唱えた吉益南涯(よしますなんがい)に古医方を、「阿波志」を完成させた佐野山陰(さのさんいん)に儒学を学び、和歌山へ帰郷しました。
そして、華岡流外科術を身に付けた後に兄が設けた医塾「春林軒」に従事します。
やがて、春林軒の分塾として中之島に設けた「合水堂」を任され、治療や指導に尽力したといわれています。
手術は兄を凌ぐほどと言われ、その技術は高く評価されました。
「より多くの命を救いたい」という想いと共に今もなおその名が刻まれています。

そして!そして?そして!?華岡青洲・鹿城兄弟と堺の関係です。
その関係とは、文化八年(1811)に兄・青洲の意を受け、弟・鹿城はある地で診療所を開設するのですが、、、
その診療所を開設した地というのが・・・堺の少林寺なのでした。

以上、「華岡青洲・鹿城兄弟〜そして少林寺〜」でした。
最後までありがとうございました。
また、本年も船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!華岡青洲・鹿城兄弟クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
当時、華岡青洲のライバル的存在といわれていた人物は次のうち誰でしょうか?
1、緒方洪庵
2、北条義時
3、渋沢栄一
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 堺会合衆の10人クイズ〜正解発表〜 】
令和四年(2022)12月13日のブログ[堺会合衆の10人]で出題したクイズの正解は「1、36人」です。
*36人説について(諸説あり)
3人1組で一ヶ月間にわたり政務を担当していたことにより一年で36人になったといわれています。

【クルーズの見たい!聞きたい!知りたい!情報コーナー】
堺のんびりクルーズでは、現在ボランティアスタッフを募集しております。
知れば知るほど虜になる堺を観濠クルーズでしかご覧頂けない特別な景色のもと、地上とはまたひと味もふた味も違う堺の魅力を一人でも多くの方に一つでも多くの事を一緒に発信してみませんか?
ぜひ、お気軽にお問合せ下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 運航日記 — kc-sakai 10:34 PM  Comments (0)

堺会合衆の10人

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
「もういくつ寝るとお〜正〜月〜♪」ということで今年も残すところあとわずかとなりました。
今年もブログをご高覧いただきまして、誠にありがとうございました。
来年も皆様により良いブログをお届けして参りたいと思いますので、引き続き宜しくお願い申し上げます。
皆様が良いお年をお迎えになられますよう、心よりお祈り申し上げます。

今回は「堺会合衆の10人」について・・・

【堺会合衆の10人】〜諸説あり〜
「この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と、弘治2年(1556)に堺の様子を見た宣教師のガスパル・ヴィレラが、ある書簡に記しました。
執政官というのは、堺会合衆を指しているといわれています。
この「堺会合衆」とは、室町時代から安土桃山時代に堺の豪商や町衆のリーダーで構成された組織です。
メンバーは、茜屋宗佐,油屋常琢,今井宗久,塩屋宗悦,千利休,高三隆達,津田宗及,紅屋宗陽,松江隆仙,山上宗二の10人といわれています。
この10人は一体どのような人物だったのか、1人ずつ紐解いて参りましょう。

・[茜屋宗佐(あかねやそうさ)]茶人・商人
天王寺屋会記に名がみえる茶人
武野紹鴎より茶の湯を学び、茶人として活動する傍ら輸入雑貨商として活躍しました。
また、鶴首茶入れや柿形茶入れなどをはじめとする多くの名物茶器を所有していたといわれています。

・[油屋常琢(あぶらやじょうたく)]豪商
徳川家康の伊賀ルートを手助けした豪商
本姓は伊達といい、油屋という薬師問屋を営んでいたことから油屋と呼ばれ、油屋肩衝などをはじめとする多くの名物茶器を所有していたといわれています。
また、堺に建立されていた妙国寺を完成させました。
本能寺の変が起きた際、徳川家康はこの妙国寺に宿泊し、油屋常琢の接待を受け、三河への脱出を手助けされたといわれています。

・[今井宗久(いまいそうきゅう)]商人・茶人
天下一の商人にして天下三宗匠
大和国高市郡今井村に生まれ、立身出世を志し南蛮貿易で活気溢れる堺へ出たといわれています。
商人として修業を重ねると同時に教養を身に付けるため、武野紹鴎より茶の湯を学び、やがて鉄砲や火薬製造にも携わり、堺での立場を確立しました。
織田信長の天下統一を側面から支え、総合軍事産業の事業家として巨万の富を築き、一代で天下一の商人となりました。

・[塩屋宗悦(しおやそうえつ)]茶人
多くの名物茶器を所有していた茶人
武野紹鴎より茶の湯を学び、茶人として活動し、天文23年(1554)以降、毎年茶会を催していたといわれています。
また、天正元年(1573)11月23日に織田信長が妙覚寺で催した茶会に津田宗及や松江隆仙と共に招かれ、汁・刺身・茶碗をのせた三の膳まで用意され、手厚くもてなされました。

・[千利休(せんのりきゅう)]茶人・商人
侘び茶を大成させた天下一の茶人
堺で塩魚を扱う商人ないし、その商人たちに倉庫を貸す「問」といわれている家業の跡取りとして、品位や教養を身に付けるため、武野紹鴎より茶の湯を学びました。
やがて、武将が次々と千利休に弟子入りし、後に利休七哲という優れた高弟が生まれ、侘び茶を大成させました。
また、北野大茶会の茶頭を務めるなど、天下一の茶人として名声が世に広まりました。
しかし、豊臣秀吉により自害に追い込まれ、切腹という壮絶な最期を遂げました。

・[高三隆達(たかさぶりゅうたつ)]僧・小歌隆達節創始者
堺が生んだ天才シンガーソングライター
堺で薬種問屋を営む末子として生まれ、跡取りではないため日蓮宗顕本寺の僧となりました。
しかし、兄の没後に還俗し家業を補佐します。
その傍ら、連歌・声曲・書画などに優れていたことから作詞作曲を行うと独特な声調の隆達節が大ヒットし、500首以上の歌が誕生しました。
また、「堺流書道」の達人として豊臣秀吉にも召し出されたといわれ、多彩な才能を発揮しました。

・[津田宗及(つだそうぎゅう)]商人・茶人
蘭奢待を与えられた茶人
堺南荘の豪商で茶人としても活躍していた父・宗達より茶の湯を学びました。
やがて、織田信長の茶頭の一人となり、千利休や今井宗久と共に「天下三宗匠」と呼ばれました。
また、天正2年(1574)に堺会合衆の10人が織田信長に招かれた相国寺茶会では、津田宗及と千利休が織田信長から蘭奢待を与えられたといわれています。
そして、天正6年(1578)に織田信長が堺を来訪した際は、自邸に訪問を受けるなど重用されていたエピソードも残されています。

・[紅屋宗陽(べにやそうよう)]商人・茶人
堺会合衆の中でもトップクラスの存在
武野紹鴎より茶の湯を学び、度々茶会を催したといわれています。
しかし、織田信長が各地の勢力に将軍への忠誠を示すため大義名分をつけ、堺へは2万貫(現在の価格にして約20~30億円)を課しますが、紅屋宗陽はこれを拒否します。
しかし、今井宗久の説得により要求を受け入れる方針に変更したことを機に織田信長との関係を深めました。
ところが、天正11年(1583)に豊臣秀吉の怒りを買い、追放以上の刑に処せられた者の領地や財産を没収される闕所(けっしょ)処分を受け、所有していた茶器を没収され、以後消息がわからなくなったといわれています。

・[松江隆仙(まつえりゅうせん)]商人
織田信長に手厚くもてなされた商人
天正元年(1573)に織田信長が妙覚寺で催した茶会に塩屋宗悦や津田宗及と共に招かれました。
織田信長より手厚くもてなされたといわれているこの茶会、床には日本の水墨画に大きな影響を与えた牧谿(もっけい)の「洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」の絵、そして斎藤道三と縁のある京の茶人・不住庵梅雪(ふじゅうあんばいせつ)が茶頭を務め、贅を尽くした茶会といわれています。

・[山上宗二(やまのうえそうじ)]茶人
千利休の一番弟子
堺の薩摩屋という商家に生まれ、堺の南の山上に住んでいたことからその地名をとったといわれています。
豪商で茶人としても活躍していた父・宗壁の背中を見ながら、幼少期より高価な茶器や名具に携わり、茶の湯に徐々に興味を示します。
そして、後に師となる千利休と出会い、茶人としての活動をスタートさせました。
千利休の一番弟子といわれ、茶人として「堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき」と評価されていました。
一方、「口悪きものにて人のにくしみものなり」といわれていた山上宗二は、やがて豊臣秀吉の怒りを買い、惨殺される最期を遂げ、46年の人生に幕を降ろしました。

以上、「鎌倉殿の13人」ならぬ「堺会合衆の10人」でした。
最後までありがとうございました。
また、来年も船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!堺会合衆の10人クイズコーナー〈難問度:★★★〉】
堺会合衆が構成されていた人数について10人という説ともう一つ説があるといわれていますが、それは次のうちどれでしょうか?
1、36人
2、54人
3、72人
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【曽呂利新左衛門クイズ〜正解発表〜】
令和四年(2022)10月4日のブログ[曽呂利新左衛門]で出題したクイズの正解は「3、作庭」です。

【クルーズのオススメグッズ紹介コーナー】
[商品名]堺クリアファイル
[価格]一枚400円(税込)
*百舌鳥古墳群バージョンは欠品中
本日のオススメグッズは、「堺クリアファイル」です。
表面は堺を代表する4つの図や写真、裏面には堺の書道家・永田峰亭先生の「堺」書と英文での堺の説明文がプリントされていて、堺ファンにはたまらない逸品です。
愛用しているスタッフも多く、お土産用にもご自分用にもお使いいただけます。
ぜひ一度、お手にお取り下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 運航日記 — kc-sakai 9:31 PM  Comments (0)

曽呂利新左衛門〜豊臣秀吉を天下取りへ導いた落語家の始祖〜

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

暑さ寒さも彼岸までと申しますが、ひと雨ごとに秋が深まり涼しくなって参りました。
皆様におかれましては、お身体にお気を付けて実り多き秋をお過ごしになられますよう、お祈り申し上げます。

今回は【曽呂利新左衛門】について~諸説あり〜

「何でも好きな褒美をやる」と言われたら何が欲しいですか?
時間?自由?それとも・・・紙袋一枚分のお米?

本姓は杉本氏、名は新左衛門のほか甚右衛門や彦右衛門といい、剃髪後は坂内宗拾(さかうちそうじゅう)と号した曽呂利新左衛門は、堺で刀の鞘を作る鞘師として活躍し、天下一の名人といわれていたほど、極めて巧みな腕前でした。
作られた鞘は、刀が塩梅に収まりソロリと抜けることから「ソロリの新左衛門」と呼ばれ、この名がついたといわれています。

歌道や香道に通じ、絵画・揮毫においてもその多彩な才能を発揮し、茶道は千利休の師でもあった武野紹鷗より学びました。
やがて、豊臣秀吉に御伽衆として仕えます。
この御伽衆というのは、室町時代後期から江戸時代初期にかけて将軍や大名の側近に侍して、相談や雑談に加えて自己経験談に応じたり、書物の内容や語句の意味を説明したりする職業です。
大名・将軍・儒僧・堺の茶人や町人などから仕えた御伽衆を最も多く召し抱えたのは、豊臣秀吉といわれ、その数はなんと800人以上にのぼりました。
その中で、曽呂利新左衛門はユーモアなセンスで御伽衆の中でもトップクラスに上り詰めました。
そんなある日のこと、曽呂利新左衛門は豊臣秀吉よりお呼びがかかります。

・豊臣秀吉「いつの日も楽しませてくれているゆえ、何でも好きな褒美をやるが、何か欲しいものはあるか?」

・曽呂利新左衛門「それでは、有り難きお言葉に甘えて、紙袋一枚分のお米を分けて戴きたいのですがよろしいですか?」

・豊臣秀吉「なんだ、紙袋一枚分でよいのか?」

・曽呂利新左衛門「はい、紙袋一枚分で結構でございます」

しかし、この約束を交わした日から数日間、曽呂利新左衛門は姿を見せませんでした。
すると、心配していた豊臣秀吉の元へ家臣より一報が届きます。
なんと、曽呂利新左衛門は大勢の人を集め、紙を張り合わせて、米蔵が入るほどの大きな紙袋を作っていたのです。
先日交わした「紙袋一枚分の褒美をやる」という約束が頭を過ぎった豊臣秀吉は急いで米蔵へ駆け付けましたが、時は既に遅し、米蔵はその大きな大きな紙袋で包まれていたのでした。
曽呂利新左衛門は満面の笑みを浮かべ、一本取られたと言わんばかりの豊臣秀吉は苦笑いしていたとか、していないとか・・・

つい惹き込まれてしまい、人を楽しませることの難しさを感じさせない多くの逸話は今もなお語り継がれ、愛されています。
堺市堺区市之町東にある屋敷跡には碑が建てられ、同じく堺市堺区にある妙法寺には忌碑が建てられています。
豊臣秀吉を天下取りへ導いた落語家の始祖は、どのような話術で人を楽しませていたのだろうか?と想像を膨らませながら、偲びたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【曽呂利新左衛門クイズ】コーナー〈難問度:★★★〉
日本の各地に曽呂利新左衛門が○○したものが今もなお残されています。
さて、この○○に入るのは次のうちどれでしょうか?
1、建造
2、調理
3、作庭
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 堺市歴史人物クイズ 】~正解発表~
令和四年(2022)7月8日のブログ[堺市歴史人物クイズ]で出題したクイズの正解を発表します。
Q1、千利休(せんのりきゅう)
Q2、与謝野晶子(よさのあきこ)
Q3、曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)
Q4、津田宗及(つだそうぎゅう)
Q5、呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 9:52 PM  Comments (0)

題名: 堺市歴史人物クイズ

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【堺市歴史人物クイズ】〜諸説あり〜

七夕飾りが街を彩り、夏の足音を感じる日々となりました。
今回は、堺市歴史人物クイズを全5問出題します。
クルーズヒントをご参考に、その人物の名言やエピソードも併せてチェックしながら、ぜひトライして下さいませ。
全問正解して、サッパリ!スッキリ!夏の暑さを吹き飛ばしましょう〜。
それでは、レッツゴー!

Q1、千○○(せんの○○○○)
クルーズヒント:茶人、幼名は田中与四郎、法名は千宗易といい、侘び茶の完成者として天下一の茶聖と称されました。
「幸せになりたいのなら、幸せとの出会いに気づけないのも、幸せとの出会いを幸せに感じられないのも、もったいないでしょう」という名言が残されています。

Q2、与謝野○○(よさの○○○)
クルーズヒント:歌人、本名は与謝野志やう、旧姓は鳳(ほう)といい、雑誌「明星」に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となりました。
「人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」という名言が残されています。

Q3、○○○新左衛門(○○○しんざえもん)
クルーズヒント:落語家の始祖、本名は杉本新左衛門といい、豊臣秀吉に仕えていた800人以上にのぼる御伽衆の中で最も有名といわれています。
その豊臣秀吉より「世はわしの顔が猿に似ているというがどう思うか」と聞かれ、「猿が殿下を慕い似せたのです」と答えたエピソードが残されています。

Q4、○○宗及(○○そうぎゅう)
クルーズヒント:茶人、名は助五郎、天王寺屋宗及とも呼ばれ、堺会合衆の代表的な存在であったといわれています。
天正6年(1578)に織田信長が堺を来訪した際は自邸に訪問を受けるなど重用されていたエピソードが残されています。

Q5、○○助左衛門(○○○すけざえもん)
クルーズヒント:伝説的貿易商人、本名は納屋助左衛門といい、豊臣秀吉にルソンで仕入れた壺など珍品を献上し、日本屈指の豪商として活躍しました。
その豪邸には、庭園に珍花を植え、居室に七宝をちりばめ、狩野永徳が描いた襖絵を飾るなど贅が極められており、招かれた松永久秀が柱に刀で傷をつけたエピソードが残されています。

正解は、次回のブログで発表しますのでぜひチェックして下さいませ。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【 山上宗二クイズ 】~正解発表~
令和四年(2022)4月15日のブログ[山上宗二]で出題したクイズの正解は、、、「3、一期一会」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 9:34 AM  Comments (0)

山上宗二

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【山上宗二】について~諸説あり〜

山上宗二
茶人
天文十三年〜天正十八年(1544〜1590)

美しく咲いた桜が散りゆく晩春、千利休の一番弟子であった山上宗二という茶人が凄惨な最期を遂げました。

山上宗二は、天文十三年(1544)に堺の薩摩屋という商家に生まれました。
堺の南の山上に住んでいたことからその地名をとったといわれています。

豪商で茶人としても活躍していた父・宗壁の背中を見ながら幼少期より高価な茶器や名具に携わり、茶の湯に徐々に興味を示し、後に師となる千利休と出会い、茶人としての活動をスタートさせました。

永禄八年(1565)、21歳になった山上宗二は千利休や今井宗久をはじめとする茶人を4人招き、華々しい茶会デビューを果たします。

天正元年(1573)、足利義昭を京都から追放し、浅井久政や長政に加え三好義継を滅ぼし、機嫌が良い織田信長より京都妙覚寺で催された茶会に招かれ、明智光秀や細川藤孝と親睦を深めました。

この時、今井宗久は53歳、千利休は51歳、山上宗二が29歳であったことから若くしてとんとん拍子に出世したことが見受けられます。
そして、天正九年(1581)、千利休と共に播磨姫路城の豊臣秀吉を訪ねたことを機に交流を深め、茶頭の一人となりました。

茶人として「堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき」と評価されていた一方、「口悪きものにて人のにくしみものなり」といわれていた山上宗二は、歯に衣きせぬ物言いによって人の憎しみを買うことが多かったといわれています。

師である千利休をはじめとする茶人が豊臣秀吉に好かれようとする態度が気に食わなくなり、「わび」の追求に注力するあまり批判とも取れる見解で非難するようになりました。

その態度は次第に激しさを増し、ついに豊臣秀吉の怒りを買い追放処分を受け、加賀の前田利家に仕えます。
しばらくして、許しを得て堺に戻りますが、再び豊臣秀吉の怒りを買い、堺を去り高野山に逃れます。
そして、既に自身の死を予感していたのか、自ら余すことなく書き記した茶の湯の秘伝書「山上宗二記」を高野山に逃れるまでに3人、さらに没年までに10人前後の弟子や大名などへ贈りました。
そして、豊臣秀吉と関係が悪化していた小田原の北条氏のもとに身を寄せ、小田原に来住します。
この来住により、茶の湯文化の勢いに大きな影響を与え、小田原で茶の湯文化が大流行したといわれています。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は天下統一のため小田原の北条氏を滅ぼす戦いを始め、小田原城を見通せる石垣山城を築き、千利休が主催となる茶会を連日催しました。
千利休は、山上宗二に豊臣秀吉へ謝罪するよう説得し、面会が叶います。

面会が叶い、ようやく豊臣秀吉から再び許しを得て茶頭として再登用を伝えられますが、なんと山上宗二はこれを断りました。
さらに、茶席に仕えていた北条幻庵に義理立てしてしまい、豊臣秀吉から凄まじい怒りを買ってしまいます。
そして、山上宗二は惨殺される最期を遂げ、46年の人生に幕を降ろしました。

豊臣秀吉の怒りの原因について、明確に説明ができる資料は残されていないといわれています。
その道を極めるというのは今も昔も難しいですが、己を貫き通した山上宗二は一流の茶人として、紛れもなく後世に名を残しました。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【山上宗二クイズ】コーナー

山上宗二が山上宗二記の中に書き記した四字熟語は次のうちどれでしょうか?
1、暗中模索
2、五里霧中
3、一期一会
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【堺市難読地名クイズ(堺区バージョン)】〜正解発表〜
令和四年(2022)1月24日のブログ[堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜]で出題したクイズの正解を発表します。
(1)遠里小野町=おりおのちょう
(2)錦綾町=きんりょうちょう
(3)百舌鳥夕雲町=もずせきうんちょう
(4)並松町=なみまつちょう
(5)北旅籠町=きたはたごちょう
(6)九間町=くけんちょう
(7)神明町=しんめいちょう
(8)熊野町=くまのちょう
(9)甲斐町=かいのちょう
(10)神南辺町=かんなべちょう

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話 — kc-sakai 10:58 AM  Comments (0)

堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜

【年始挨拶】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。
皆様にとりまして、幸多き一年になりますようお祈り申し上げますとともに、新型コロナウイルスの一日でも早い終息、また、堺のんびりクルーズの運航再開をお祈り致します。
一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信出来ますよう務めて参りたいと思いますので、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

今回は【堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜】諸説あり
新年を迎えた初めてのブログは、堺市難読地名クイズ堺区バージョンを全10問出題します。
クルーズヒントをご参考に、ぜひトライして下さいませ。
それでは、レッツゴー!

(1)遠里小野町=○○○○ちょう
クルーズヒント:万葉集では「とほさとをの(とおさとおの)」と詠まれています。
かつては、「ハリのオヌ」,「ウリノ」,「瓜生野(うりうの)」などと呼ばれ、それが訛って「遠里小野=○○○○」に変わったといわれています。

(2)錦綾町=○○○○○ちょう
クルーズヒント:京都より技量の優れた織物師が堺へ移住後に当地で錦織りや綾織りなどをはじめたといわれています。

(3)百舌鳥夕雲町=○○○○○○ちょう
クルーズヒント:慶長から寛文に至る総検地以後に開かれた耕地を新田と呼び、その初めが夕雲開(「万代(もず)新田」)でした。
夕雲開は、幕府代官〈高西夕雲〉という方が新田の開発にあたったといわれています。

(4)並松町=○○○○ちょう
クルーズヒント:寛永年間に街道の両側に松の木が植えられて以来、並松や松中と通称されていたといわれています。

(5)北旅籠町=○○○○○ちょう
クルーズヒント:堺の町の南北の入り口にあたる当地に旅籠があったといわれています。

(6)九間町=○○○ちょう
クルーズヒント:大同元年(806)に弘法大師が唐より帰国された翌年に京都へ行かれる途中、当地に四面九間の堂を建立し布教されたといわれています。

(7)神明町=○○○○ちょう
クルーズヒント:奈良時代初期創建といわれる、神明神社(菅原神社に合祀)が当地にあったといわれています。

(8)熊野町=○○○ちょう
クルーズヒント:湯屋(風呂屋)が当地に多く並んでいたといわれています。

(9)甲斐町=○○○ちょう
クルーズヒント:戦国期からある町名で、神功皇后が当地に甲を納めまつったといわれています。

(10)神南辺町=○○○○ちょう
クルーズヒント:鋳物師の名人から社会福祉に尽力した〈神南辺道心〉という方が当地に住んでいたといわれています。

正解は、次回のブログで発表しますのでぜひチェックして下さいませ。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【さいとう・たかをクイズ】~正解発表~
令和三年(2021)11月1日のブログ[さいとう・たかを]で出題したクイズの正解は、、、「2、6,000部 」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,未分類,観光案内 — kc-sakai 5:13 PM  Comments (0)

さいとう・たかを〜革新をもたらした劇画界の代表的人物〜

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【さいとう・たかを】について~諸説あり〜

さいとう・たかを
劇画家
昭和十一年~令和三年(1936~2021)

劇画家さいとう・たかを(齊藤隆夫)先生が9月24日、お亡くなりになられました。
〈ゴルゴ13〉をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、さいとう・たかを先生を偲びたいと思います。

5人兄弟の末子として和歌山県和歌山市に生まれ、小学校1年生の2学期に大阪府堺市の福泉(現在の堺市西区山田)に移り住み、母親が女手一つで5人を育てながら理髪店を営んでいたといわれています。
絵を描くことと映画を見ることが好きで、お小遣いが貯まると鳳や堺東にあった映画館へ通いながら、実家の理髪店を手伝いました。
福泉中学校を卒業後は、理容師になるため理容学校で知識や技術を身に付け、姉と実家の理髪店を継ぎ、繁盛したといわれています。
しかし、「絵を描きたい」という気持ちが膨らんでいき、母親から1年間の猶予を許してもらい、朝から夜まで実家の理髪店で働きながら夜中に漫画を描くという生活を続けました。
そして1年後、〈空気男爵〉を完成させ大阪の貸本出版社日の丸文庫に持ち込みました。
ところが、日の丸文庫の社長に等倍の紙に漫画を描いたことを指摘され、更に1年かけて描き直し、1年後に漫画家デビューが決定します。
それ以降、看板漫画家として単行本を次々と発表し、専念するため実家の理髪店を辞めたいと母親に打ち明けました。
すると、「絵を描いて食べていけるわけがない」と母親は激怒してしまい、漫画を嫌うようになりました。
漫画家になることを認めてもらえないまま、まもなくして上京し、漫画仲間との「劇画工房」結成を経て、さいとう・プロダクションを設立しました。
そして、「漫画は一人で描く」という常識を覆し、インターネットがない時代に莫大な資料に基づいて人物・背景・乗り物・武器など得意の分野を描き、その優れた才能を持ち寄ることで優れた作品にするという分業制の態勢を確立しました。
いわば、ライバルをパートナーにするという分業制は、革新をもたらした瞬間でした。
それから、現在の堺市西区山田にあった山田温泉という割烹旅館をモデルにして描いた2冊目の単行本〈幽霊館〉、〈鬼平犯科帳〉、国籍・年齢・本名が全て不明の超一流スナイパーの活躍を描いた〈ゴルゴ13〉、〈台風五郎〉ほか、多くの作品が誕生し時代を超えて愛され続けてきました。
中でも、主人公の名前を福泉中学校の担任の先生の名前から由来したといわれている代表作〈ゴルゴ13〉は、昭和43年(1968)より連載が開始し現在も連載中の長寿漫画として単行本の刊行数が世界一となる201巻、令和3年(2021)3月には累計発行部数が3億部を突破、同年7月には「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」としてギネス世界記録に認定されました。
徹底したリアリティーで人間を描くからこそ、「その正義とやらはお前たちだけの正義じゃないのか?」や「10%の才能と20%の努力、そして30%の臆病さ、残る40%は運だろうな」など、作品の中の多くの名言が心に刺さりました。
善悪を超越した主人公を生み出し、どんなときもどんなことがあっても大きな心で信念をぶらさず冷静に人間のリアリティーを描き続け、平成15年(2003)に紫綬褒章、平成22年(2010)に旭日小綬章ほか、多くの賞を受賞しました。

平成30年(2018)に連載50年を迎えた〈ゴルゴ13〉は、さいとう・たかを先生のご遺志のもと連載継続が発表されました。
「だが、物語は続く」これからも、いつまでも。

さいとう・たかを先生のご逝去を悼み、心から哀悼の意を表しますとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

レッツ!トライ!【さいとう・たかをクイズ】コーナー
「私の作品が、個人的に思い入れある堺市に、少しでもお役に立てるならば幸いです。」と、平成24年(2012)より堺名誉大使を務めている堺市に協力し、新型コロナウイルス感染拡大防止の啓発ポスターが作成されました。
このポスターが作成された枚数は、次のうちどれでしょうか?
1、3,000部
2、6,000部
3、9,000部
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 ザビエル公園と黄金の日々クイズ 】~正解発表~
令和三年(2021)7月16日のブログ[ザビエル公園と黄金の日々]で出題したクイズの正解は、、、「1、戎公園」です。
大阪で唯一の路面電車・阪堺電気軌道の花田口駅前にある緑溢れた公園です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 12:00 PM  Comments (0)
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